◆ 演出技法よる分類 ◆

人形浄瑠璃/文楽

人形浄瑠璃/文楽 (にんぎょう・じょうるり/ぶんらく) 

語り物音楽の〈浄瑠璃〉に合わせて、人形によって演じられる人形劇の総称。

淡路出身の初世植村文楽軒(1751-1810)が興した〈文楽座〉が、明治以降、唯一のプロの劇場となったため、人形浄瑠璃を〈文楽〉と呼ぶことが通例になった。

長野県飯田市:黒田人形
長野県飯田市:黒田人形

浄瑠璃 (じょうるり) 

三味線を伴奏楽器として太夫が語る音曲。人形芝居の意味でも使われる。
 文楽の義太夫節がよく知られているが、義太夫節・河東節・一中節・常磐津節・富本節・清元節・新内節・宮薗節(薗八節)の8流派がある。

その起源は、戦国時代ごろの御伽草子の一種『浄瑠璃十二段草子』「百家系譜」によれば、作者は織田信長に仕えた侍女の小野阿通という、大病のため静養していた信長のために三味線を用いて語ったという説が江戸時代までは有力であった。しかし、享禄4年(1531)の「宗長日記」には、少なくともそれ以前から浄瑠璃(十二段草紙)が存在していた、との記述があり、それを当道座に所属していた琵琶法師によって、平曲(平家物語を琵琶により伴奏して語ったもの)に次ぐ新たなものとして扱われ、滝野検校によって節がつけられ、はじめ琵琶で演奏されていた。その後、虎沢検校に師事した沢住検校によって三味線を用いて語られるようになり、それを小野阿通が信長に聞かせたという説が一般的である。

古浄瑠璃 (こじょうるり) 

古浄瑠璃とは、初代竹本義太夫が語った義太夫節より以前の浄瑠璃のこと。
 慶長から貞享年間までは、古浄瑠璃の時代としている。近松門左衛門が初代竹本義太夫のために書いた「出世景清(貞享3年:1686)」が革命的な浄瑠璃作品だったので、それ以前を「古浄瑠璃」、以降を「新浄瑠璃(当流)」といって区別している。演劇性が高い近松作品の義太夫節が人気になると、古浄瑠璃は廃れた。近松以前の江戸時代初期、庶民に人気があり、素朴な力強さや、宗教色が強いことが特徴である。
 古浄瑠璃は、江戸時代初期に多くのが現れた新浄瑠璃に名残を残している。芸風は、主に軟派と硬派に分別され、太夫が人形つかいを兼ねることが多かった。滝野検校、澤住検校という二人の当道座の検校(一説では勾当)によって、既存の浄瑠璃に節が作られ、琵琶で演奏されたものが三味線を用いられるようになった。現在の『浄瑠璃』を薩摩浄雲の頃から、糸あやつりから、手づかいに変わったといわれている。
 ※注:【勾当】 昔、盲人に与えた官名。検校の下、座頭の上。

 

碁盤人形 (ごばん・にんぎょう) 

主として、座敷芸的人形として演じられた。人形は高く差し上げず、碁盤の上や床の上であやつられた。人形の重力的安定が、操作する者にも、観る者にも望まれたことであろうから、人形に足がつくことになる。
 操者の手は人形の裾からではなく、背面の腰から差し込まれることになる。座敷で使われる儀礼的「三番曳」の二人づかいでの集団演技の困難さを克服するために、1人の演者だけで、操作が可能な構造として、また、その操法として座敷芸の中で開拓されたと考えられる。
 そして、この差し込み式構造は、やがて腰かけ式碁盤づかいが、三人づかいを含む、すべての抱えづかいの出発となった。 このことは、舞台人形の技術の進化の一つの法則性で、三人づかいが車人形に転化することの中にも見られる。車人形を三人づかいからの退歩と見る向きがあるが、舞台人形の発展の観点から考えれば誤りである

碁盤人形
左:台づかい式碁盤人形 (葛飾北斉画) 中:三番曳の図 「からくり人形興行」
のビラの部分 文久元年(1861)浅草奥山。 右:豊松家元祖(豊松藤五郎)式三番叟づかいの図 
元和(1915-1624)から明治まで行なわれたといわれる。

 

金平人形 (きんぴら・にんぎょう、きんぺい・にんぎょう) 

江戸前期、江戸に流行した人形浄瑠璃で、江戸の桜井和泉太夫(のち丹波掾)が創始。坂田金時の子ども金平の武勇談が、古浄瑠璃(荒事金平節)に合わせて、人形芝居として上演された。その豪快粗野な曲が江戸の気風に合い町人に喜ばれた。初世市川団十郎の荒事(あらごと)もこの人形の動きから考案されたものといわれる。

佐渡金平人形
佐渡金平人形:古浄瑠璃「熊谷合戦」の主人公金平

 

文弥人形 (ぶんや・にんぎょう) 

江戸中期から、金山でにぎわっていた佐渡では、寺社などの祭で人形芝居が行われていた。その後明治時代になって、この人形芝居と文弥節が結びつくかたちで広がったのが文弥人形である。
文弥人形として成立したのは、明治時代のはじめである。盲人の座語りとして語られていた文弥節を、佐和田町沢根の伊藤常盤一(いとう ときわいち)が語り、小木町の人形つかいの大崎屋松之助が腰幕の内側に組み立て式の枠を組み、4枚の襖を立て二段舞台に改良した。
また、人形の着物も下から手を入れる突っ込み式ではなく、背を裂いて手を入れるつかい方になり、さらに首が糸によって前後左右に動くように工夫された結果、佐渡の人形芝居は一新した。
現在、佐渡の人形芝居といえば文弥人形であり、島内に10座ほどあって、佐渡人形芝居保存会を結成している。加賀、薩摩、日向にも文弥人形が残っている。
  ※注: 文弥節は新しいが、構造は、古浄瑠璃時代の構造である。

佐渡金平人形

佐渡金平人形
佐渡文弥人形

 

三人抱えづかい人形/文楽式抱えづかい人形 (ぶんらくしき・かかえづかい・にんぎょう)

3人のうち、主(おも)づかいが、右手で首を操作する胴串と、人形の右腕をつかう。足づかいが操作しやすいよう、高下駄を履いて、人形を高く保持する。左づかいは、つかい棒で人形の左腕をつかう。足づかいは、人形の足のそれぞれをつかんで、左右の足をつかう。3人の人形つかいが、一体となって、1体の人形を操る。
 川尻泰司の説では、三番叟を演じるときに、補助者が足をつかったのが始まりと推測している。三番叟では、リズミカルに足踏みをするのが肝であるからだ。そして、よりリアルな表現をするために、補助操者を増やし、今日のかたちになったと考えられている。

淡路人形

文楽人形の構造

 

えびす舞わし (えびす・まわし) 

三人抱えづかい人形を1人で操作できるものに改良し、恵比寿様の人形を舞わし、全国で門付け芸を行った。淡路や徳島の人が多く、写真は、徳島県池田付近の人である。

えびす舞わし

 

一人抱えづかい人形 (ひとり・かかえづかい・にんぎょう) 

簡単な1人で操作する手妻人形などから、三人づかいの文楽式の人形まで発展した抱えづかい人形は、江戸時代末、人件費が高騰することに対応して、同じ機能を保持したまま1人で操作できるような機構を工夫し、大分・中津の北原(きたばる)人形や、八王子の車人形、大阪の娘文楽、相模の乙女文楽、として発達した。
 商業で成功した旦那衆が、当時は教養を示す趣味として、かつては謡曲であったが、浄瑠璃を語るようになり、プロの大夫の師匠に習う者も多かった。
 その成果を発表するために、素人浄瑠璃の会を催した。中に客寄せのため人形芝居一座を雇って芝居に合わせて語る者がいた。しかし、浄瑠璃芝居を演じるためには四本柱といわれる──立女形(一枚目)、色男の二枚目、その二人に茶々を入れるチャリ(三枚目)、恋敵の敵役という人形が必要で、三味線や後見などを入れると、三人づかいでは結構な費用を要した。人形つかい達は、人形を1人で操作する工夫をすることで、仕事の機会を得ようとしたのだ。

北原人形 (きたばる・にんぎょう) 

明治まで行われていた碁盤人形の形式を、文楽式の人形に採用したと思われる構造。人形つかいは、箱に腰掛けるか、中腰で人形を操作する。人形は、首の胴串と、人形の左腕の弓手を、左手でつかう。人形の右腕は、右手で操作する。両足の操作は、操者の足の指先で行う。

北原人形

 

腕金式一人づかい(大阪娘文楽) (うでがねしき・ひとりづかい) 

大正9年、大阪の林二木(にぼく)が考案した。人形全体を腕につけた金属で固定して支える構造。首は、人形つかいの頭に固定した糸により操作する。自由になった両手で、人形の両腕を操作する(撮影のために左手で胴串を支えている)。時に、足も空いた手で操作する。

大阪娘文楽
大阪娘文楽のつかい方と構造

 

胴金式一人づかい(乙女文楽) (どうがねしき・ひとりづかい) 

乙女文楽の五代目吉竹紋造は、腕金式一人づかいを胴金式に改良した。基本的構造は同じだが、帯に取り付けた垂直な管に、胴串に取り付けた長い棒を差し込んで固定することで、人形を支える構造にした。このことで、人形つかいの腕がより自由になり、操作も楽にできるようになった。

乙女文楽
乙女文楽の構造  (桐竹千恵子)
大阪娘文楽
ひとみ座乙女文楽「二人三番叟」

 

車人形 (くるま・にんぎょう) 

江戸末期、初代西川古柳が、考案したと伝わっている。ろくろ車に腰掛けて移動し、人形の踵(かかと)についた短い棒を足の指で挟んでつかう。右腕は右手で、首の胴串と、弓手と呼ぶ左腕を左手で同時に操作する。これらの構造の工夫で、文楽の三人づかいと同じような演技が1人で可能となる

八王子車人形
八王子車人形 「二人三番叟」
八王子車人形
人形の構造と、つかい方

 


 参考文献
「日本人形劇発達史・考」 川尻泰司 1986