人形劇の組織/団体

ウニマ (うにま) UNIMA

https://www.unima.org/

国際人形劇連盟、正式名称:Union Internationale de la Marionnette、略称:UNIMA、国際ウニマ。

人形劇芸術の発展に貢献する世界中の人々を結びつける非政府組織(NGO)で、人種、文化、および政治的・宗教的信念をこえて、それぞれの国民との平和や相互理解などの人類的価値を追求し、1948年12月10日に国際連合で採択された世界人権宣言が定める基本的人権を尊重し、人形劇芸術を供することを目的として設立された団体。

1929年、プラハにおいて、14ヵ国の加盟で発足した。第2次世界大戦で一時、活動が中断したが、1957年、プラハ第5回ウニマ大会から、活動が再開された。

事務局は、書記長の所在国に設けられることになっていたが、現在では、フランスのシャルルビル・メジェール市の国際人形劇研究所内に常設されるようになった。

国際ウニマ事務局 書記長だった故・ジャック・フェリックス国際ウニマ事務局 事務局のある建物

日本からは、ブカレスト第6回ウニマ大会に、川尻泰司、山村祐の2名が日本の人形劇人として初めて参加した。同時に人形劇団プークが、ウニマ会員となった。山村祐は翌年「現代ヨーロッパの人形劇」<昭森社>を刊行し、戦後初めてヨーロッパの人形劇状況を紹介した。

ウニマ総会 (うにま・そうかい) UNIMA Congress

4年ごとに開催される、評議員によって構成される、国際ウニマの最高議決機関。慣例として、期間中、世界人形劇フェスティバルが開催される。これらのイベント全体をさして、〈ウニマ大会〉と呼ぶ。

創立以来、ウニマ会員全員が参加する総会であったが、1992年、リュブリャナ総会以降、評議員による代議員制となった。各国センターから派遣される複数名の評議員、センターのない加盟国から派遣される1名の評議員、および総会で選出される10名の追加評議員によって構成される。

1988年には、日本で第15回ウニマ総会が開催された。(→ 名古屋・飯田・東京 第5回ウニマ大会

ウニマ大会 (うにま・たいかい) UNIMA Congress

国際ウニマの総会と、同時に開催される世界人形劇フェスティバルのイベント全体をさして呼ばれる。(→ ウニマ総会

ウニマ・センター (うにま・せんたー) UNIMA Center

加盟国のうち、一定の要件を備えた国がセンターになることができる。ウニマ・センターは、所属会員数により、複数名の評議員を派遣できる。
 センター以外で、会員のいる国は、1名の評議員を派遣できる。

ウニマ評議会 (うにま・ひょうぎかい) UNIMA Council

評議員により、総会の2年後の次の総会までに、1度だけ開催され、総会を補完する。慣例として、期間中、人形劇フェスティバルが開催される。

NPO法人 日本ウニマ (にほん・うにま) NIHON UNIMA

http://unima-japan.la.coocan.jp/

1967年5月26日、人形劇にたずさわるすべての個人、および団体により、わが国の人形劇の 普及と高揚をはかり、伝統を保持し、人形劇の国際的発展に寄与することを目的して設立された団体。国際人形劇連盟(Union Internationale de la Marionnette)の日本センター。初代会長:川尻泰司、現会長:くすのき燕(2017)。

日本人形劇人協会 (にほん・にんぎょうげきじん・きょうかい) Japan Puppeteers Association  http://www.ningyogekijin.jp/

1967年3月、人形劇を職業とする専門人形劇人の相互の親睦と、その社会的芸術的地位の向上をはかり、日本の人形劇の発展に資することを目的に創設された団体。初代会長:桐竹紋十郎、 現理事長:大江健司(2017)。

JVA(日本腹話術師協会) Japan Ventriloqusits' Association

腹話術師による団体。1999年、腹話術愛好者グループTCとして発足。2000年、NPO法人 日本腹話術師協会として設立。2001年から国内での腹話術普及推進と社会的地位向上や、世界の腹話術師たちとの国際交流を目指して「世界腹話術の祭典」開催を続けている。2014年、NPOの法人格を返上、団体発足原点に立ち返り、専門分野での活用を推進している。

日本パペットセラピー学会 Japanese Puppet Therapy Association 略称:JPTA

http://www.j-pta.net/constitution.html

2007年、日本における腹話術、または人形術(パペッタリー)の医療、保育、特別支援教育心理療法、福祉などへの新たな取り組みとして、研究、および研究者間の学術的提携を図ることを目的に設立された団体。初代理事長:原美智子、現理事長:原美智子(2017)。

人形劇協議会 / 人形劇連絡協議会 (にんぎょうげき・きょうぎかい / にんぎょうげき・れんらく・きょうぎかい)

主に、道府県、市など、地域をを単位とする人形劇人による協議体。人形劇フェスティバル開催のために組織されるものが多い。略称として、〈人協〉(にんきょう / じんきょう)と呼ばれる。

1959年、旭川市で開催された、第1回北海道人形劇フェスティバルを契機に、急速に各地で組織されるようになった。その特徴は、アマチュア人形劇人が中心となって組織されていることである。当初は、「広めよう、高めよう」のスローガンを掲げ、〈フェスティバル運動〉の推進、人形劇の向上を目的とし、地域を越えた活発な議論・交流が行われている。

しかし、〈フェスティバル運動〉の衰退とともに、運動的側面は減少し、地域を越えた交流もほとんど行われなくなった。現在では、人形劇フェスを開催するためだけの協議体となっているものが多い。

人協(にんきょう / じんきょう)

〈人形劇協議会〉、または〈人形劇連絡協議会〉の略称。(→ 人形劇連絡協議会

当初は、「じんきょう」と呼ばれていたが、札幌人形劇協議会の略称、〈札人協〉の読みが「さつじんきょう」となり、「殺人」を連想させるものから、「にんきょう」という呼び方が増えていった。

パペットパンチ (ぱぺっと・ぱんち)

日本ウニマの運営する、誰でも参加できる人形劇人のためのメーリングリスト。参加方法など、詳しくは、日本ウニマのホームページを参照。

2004年、藤原玄洋が日本ウニマ事務局にいたとき、人形劇人に交流・告知の場を提供するために、個人的に始めた。その後、日本ウニマの電子情報委員会の所管に移行された。  http://unima-japan.la.coocan.jp/jpn/

 

人形劇フェスティバル

人形劇フェスティバル (にんぎょうげき・ふぇすてぃばる) puppetry Festival

複数の人形劇団、または個人により、人形上演を主とするイベント。海外の人形劇団をいくつか(おおむね3劇団以上)招聘して開催される〈国際人形劇フェスティバル〉〈世界人形劇フェスティバルと〉と、国内劇団によって開催される〈国内人形劇フェスティバル〉がある。

日本の人形劇フェスティバル

モスクワ第6回世界青年平和友好祭(1957年)に、参加した人形劇団プーク代表の川尻泰司と、新聞記者でアマチュア人形劇団テアトロ・ポックルの松井恒幸は、会期中に開催された人形劇フェスティバルに初めて接し、感銘を受けた。日本でも人形劇フェスを開催したいと、帰国後2人が中心となり、1959年、第1回北海道人形劇フェスティバルを、松井の活動地であった、旭川市において開催した。これが、日本最初の人形劇フェスである。

第1回北海道人形劇フェスティバル
第1回北海道人形劇フェスティバルのパレード (右端が松井恒幸)

その後、日本各地に開催が広がっていった。同時に府県単位の協議体、いわゆる〈人協〉が、1980年には30近くも組織され、人形劇フェスも活発に開催された。日本人形劇研究所(所長:川尻泰司)の発行する「日本の人形劇人」誌(1961-70発行)が、全国の人形劇人による討論・交流の場を提供することで、人形劇フェスの拡大に、大きな役割を果たした。

しかし、「高めよう、広めよう」をスローガンに、〈フェスティバル運動〉と呼ばれた運動色の強い人形劇フェスティバルも、1980年代に入ると、次第に活発さを失っていった。それに代わるように、各地の自治体と協調して開催される人形劇フェスへと移り変わるものが増えていった。

運動が衰退した理由は、スローガンの内、「広めよう」は、大きな成果を発揮し、日本中に広まることになった。しかし、ある程度広まっているのに、「高めよう」の方は、具体的な成果を上げることができず、フェスティバル運動によって、これ以上の進展が期待できないことが、この運動の限界となったのではないかと思う。アマチュア人形劇団が中心となった、フェスティバルであったため、究極まで「高めよう」というエネルギーがアマチュア側にはなかったからではないかと思う。

1910年現在でも、人形劇フェスは、全国に50近く開催されていると思われる。このように多くの人形劇フェスが、毎年開かれている国は他にない。

第6回世界青年平和友好祭 

1957年、モスクワで開催された。日本からは、各界の代表150名が参加。その内、30名が芸術代表団。人形劇としては、人形劇団プーク劇団員の川尻泰司、古賀伸一、木村陽子、旭川のアマチュア人形劇団テアトロ・ポックルの松井恒幸の計4名が参加した。

この友好祭は、数々の点で、現代人形劇史上のエポックとなった。第1は、それまでも、文書による国際交流の努力はなされていたが、顔を合わせての実際の国際交流が行われたのは初めて。第2は、会期中開催されていた人形劇フェスに刺激され、日本で初めての人形劇フェス開催のキッカケとなった。第3は、現代人形劇として初めて、海外での上演の機会を持った。第4は、戦後初めて開催された国際人形劇会議に参加し、川尻泰司が「日本の人形劇全般にわたる報告」を行った。

全国人形劇人会議 (ぜんこく・にんぎょうげきじん・かいぎ)

1964年、東京において、全国の人形劇人の参加により開催された。第2回は1967年、東京、第3回は1971年、京都で開催されたが、尻すぼみの状態で、その後継承されることはなかった。

理由として考えられるのは、この頃すでに〈フェスティバル運動〉衰退の動きが始まっていたからだと思われる。

その後、東京人形劇連絡会の水島秀夫が、人形劇人会議の再会を呼びかけ 、1987年、飯田人形劇カーニバル会場で開催されたが、会議そのものへの参加人数が27名位と少なく、全国の人形劇人の関心も得られなかったこともあり、残念ながら成功したとはいえない。

北海道人形劇フェスティバル10周年記念 沖縄の人形劇人を迎えて人形の幸福と平和のための全日本人形劇フェスティバル

1968年、人形劇フェスティバル発祥の地、旭川市で10回記念として開催された。日本で行われた、初めての全国規模の人形劇フェス。

本土復帰前の沖縄から、3名の人形劇人を迎え、その3名を南から各地で迎えながら北上し、最期は旭川市に到着したところで、フェスティバルが開会するという、全国の人形劇人を巻き込んでのフェスティバルとなった。

全日本人形劇フェスティバル
開会式であいさつをする加藤博北海道人形劇協議会会長

北海道人形劇協議会は、最初は「全国人形劇フェスティバル」を開催を計画していた。全国人形劇会議などで、松井恒幸、川尻泰司が中心となり、開催を呼びかけたが、人形劇人の多くが「開催は時期尚早」として、呼称と内容に反対した。その結果、「全日本」という呼称で開催したという経緯がある。

誤解があるといけないので、念のために申し述べると、反対意見は多数あったが、全国の人形劇人は、このフェスに積極的に参加・協力したのである。筆者自身も、反対を表明するために、岡山県人協より派遣されたが、前日から、開会式後のページェント(野外劇)のための大型人形を、開催地や各地の人形劇人と作っていたのだ。

人形劇人の美風といっていいかもしれないが、意見を異にしていたとしても、とりあえず同じテーブルに全員が座って、議論できたのである。分裂して反対行動がおきるようなことはなかった。

ちょっと余談:  イベント名の10周年というのは誤り、実際は9周年。第10回と、10周年を混同してしまったのだ。35年後の2003年、人形劇団テアトロ・ポックルの50周年記念のイベントの際、筆者がパンフレット編集・レイアウトしたときに、初めて気づき、指摘した。10回記念の全日本人形劇フェスにも、筆者は学生で参加していたが、2003年まで誰も気がつかなかったようである。他の人形劇のイベントにも誤りがあるかもしれない。
 さらに余談を重ねると、その後、浜頓別の開催が路線上の問題で紛糾し、開催が1年飛んでしまったことで、開催回数と、周年が同じになって現在に至っている。

アジア太平洋人形劇祭典 1979 (あじあ・たいへいよう・にんぎょうげき・さいてん 1979) International Puppet Festival of Asian-Pacific Area 1979 Tokyo

国際児童年の1979年、日本ウニマ主管で、新宿を中心に開催された、日本最初の国際人形劇フェスティバル。文化庁より900万円の助成を受けた。人形劇に対して国からの本格的な助成を受けた初めてのイベントとなっている。

アジア太平洋人形劇祭典 1979
アジア太平洋人形劇祭典 1979 開会式

名古屋・飯田・東京 第15回ウニマ大会 Nagoya/Iida/Tokyo 15th UNIMA CONGRESS

1988年、日本で開催されたウニマ大会。名古屋で、ウニマ総会が開かれ、名古屋・飯田・東京で、世界人形劇フェスティバルが開催された。開催費用は、約3億円で、現在までの国内最大の人形劇イベント。(→ ウニマ総会

名古屋・飯田・東京 第5回ウニマ大会 名古屋・飯田・東京 第5回ウニマ大会 開会式  左から、川尻泰司 日本ウニマ会長、
松澤太郎 飯田市長、西尾武喜 名古屋市長、ヘンリック・ユルコフスキー 国際ウニマ会長

いいだ人形劇フェスタ (いいだ・にんぎょうげき・ふぇすた) Iida Puppet Festa

全国の人形劇がオープン参加のできる、日本最大の人形劇フェスティバル。1979年に〈人形劇カーニバル飯田〉として、人形劇人中心の運営で始まった。

いいだ人形劇カーニバルの開催には、人形劇団ひとみ座が大きな役割を果たした。当時の劇団代表であった須田輪太郎によると、ひとみ座では毎年、慰安旅行をしており、飯田に行くことになった。当時の松澤太郎市長に会場提供を申し込み、その過程で、「せっかく行くなら人形劇の上演もやろう、上演やるなら、全国からも人形劇を呼んでやろう」と話が進み、人形劇カーニバル開催となったとのことである。

松澤市長は、当時を振り返り、「人形劇を媒体として、市民が挙って参加し、ともに楽しみながら互いに連携を深め、共通の目標に向かって行動しうる何かが生まれないだろうか。いまにして思えば『地域づくりのための文化的イベント』を想定した」と述べている。【林優一郎「人形劇を活かした地域づくりを目指して」】

カーニバルの特徴のひとつである〈分散方式〉は、人形劇団が市内各地区に出向いていって上演するというものであるが、開催の動機がそのような形態をつくったと思われる。

1998年、第20回を最期に、突然〈人形劇カーニバル飯田〉は、幕を閉じた。しかし、その後、市民を中心とした運営体が組織され、間を置くことなく、〈いいだ人形劇フェスタ 1999〉として誕生、現在も続いている。

 


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